先日、アルピニストの野口健さんの
ブログを読み、非常に感銘を受けました。
非常にデリケートな内容で、コメントするにも躊躇した事を前提に中国とチベットの問題について触れています。
日本でも連日報道されたチベット動乱。本当の意味をこのブログで知りました。
チベットは、中国に人権的侵略を受けていました。表立った侵略が出来なくなった中国は、ある程度の物と金を与え、便利な生活を送らせる事によって元の生活に戻れなくなるように仕向けました。行った事はないのですが、現在のチベットは、高級ホテルやレストランが建ち並ぶ一見裕福な都会だそうです。
このことは、単に反乱を抑えるだけでなく、チベットの文化をも破壊する事になっていきます。
海外ボランティアも行っている、ある企業の社長さんから「戦争や紛争で家などが破壊されて、多くの人が亡くなっても、立ち直る事は出来る。ただ、絶対に立ち直れないのは文化を破壊される事だ」という話を聞いたことがあります。
チベットでは、今、命をなげうってでも、自分たちの文化を守ろうとしています。文化の崩壊が民族の崩壊になる事を知っているのでしょう。
このことについては、野口さんのブログに細かく書いてあります。一人でも多くの人に知ってもらいたく、書きました。
この、チベット問題を見ていく中で、私達の身近な部分でも同じ事が起きているのではないかと思うようになりました。
物に支配された日本の文化。
文化を築いていく最小単位であるはずの暮らし、家ですら、商品として扱われる時代。
あえて書きます。私は、ハウスメーカーの建てる家そのものに対してどうこう言うつもりはありません。しかし、家を商品として扱い、地域や暮らす人の事も考えずにただただ数字合わせのために施主の言いなりに、たいした信念もなく建てられる物、行為に憤りを感じます。
全国一律のパターンで与えられる家は、どこかチベットにも似ていると感じます。つまり、最小単位であるはずの家から文化が壊されていっているのではないでしょうか。この状況が続いた先の日本では、どのような文化が築かれていくのか。
現に、多発する家庭内での殺人事件、理解不能な通り魔殺人、人と人との繋がり・コミュニケーションが崩壊しつつあるのです。そんな危機的状況でも、日本の文化は、暮らしの単位から壊され続けています。以前にも書きましたが、自分の家・暮らしが「○○シリーズ」というくくりで縛られますか?何か間違っている気がします。